SA-CHiN☆★☆の ケ・セラ・セラ日記 plus

しっかり者のHIRO☆★ と 尚兄ぃ&実ぃの成長、ちゃらんぽらんなSA-CHiN★☆の記録

て〜郷中教育〜

いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ
                                                 うゐのおくま けふこえ あさきゆめみし ゑひもせす

 

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ごじゅきょういっ・・・郷中教育(ちょいと昔の、田舎の子育て事情)

              わ                  たしな

    🌱敵となる人こそは 己が師匠ぞと 思ひかへして 身をも嗜め🌱

 

      本来、自分の敵となる人は 大抵 憎むべき人であろうが、

 

            見方を変えて考えると、敵とは

 

    自分に油断をさせず、刺激を与え、自分を磨いてくれるものである。

 

      そう考えると、敵とは 良き手本となるものである。

 

          敵こそは 自分の師匠のように捉えて


         敵にも慈悲の心を忘れずに、我が身を慎め。

 

 
       ー冷静に観察すれば、敵は反面教師として見えてくるー

 

  
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自分のこれまでの人生では、

ふ〜郷中教育〜 - SA-CHiN☆★☆の ケ・セラ・セラ日記 plusでも記しましたが、

あまり「敵」「味方」という認識を持たないまま過ごしてきました。

それ故に、婆婆(実母)が言う言葉

      「他人に出し抜かれないようにしなさい」

      「皆んな陰で分からないように勉強しているから 貴女も勉強しなさい」

という言葉が学生の頃、不快でなりませんでした。

勉強って、自分で「やろう!」と思わなければ、

いくら机に向かい、教科書や参考書を広げても、能率は上がらないし、

他の事を考えていては問題は解けないと思うんだけど…。

 

たぶん、戦争を経てきたか否か という時代環境の違い、

生活に緊迫感があるのか否か の差が大きいのかもしれません。

 

        🌱  🌿  ☘       🍀  🍃  🍁  🍂

 

私はこれまで「人を区別・差別しないで接する」ように心掛けてきたように思います。

それは、小学校一年生の時に遡りますが。。。

 

小学校の放課後に 珍しく友だち数人と遊ぶ約束をした日がありました。

    (宿題をしてからしか遊べなかったわが家。

     友だちは皆、夕方5時まで遊んでから、
       夕食前までに宿題を済ませる約束になっていたらしい)

この日の私は、友だちに誘われたのが嬉しくて、

《わが家のルール》を破り、遊びに出掛けました。

 

いつもは 決して1人では行くことのない学区内の地域に

友だちと足を踏み入れるのは 私にとっては 大冒険で、
とてもワクワクしていた事を覚えています。

そんな中、男の子の1人が

「Mくん(転校生)の家がこの辺にあるよー。」

と言って、皆んなを誘導して行きました。

「この辺だと思うんだけど…」

とその男の子はキョロキョロしていましたが、

その辺りには家らしい家はありませんでした。

そんな時、偶然、目の前にあった小屋の戸が開いて、

Mくんが出てきました。

「えっ? お前ん家、ココなん?ボロ屋だなぁ。」

と1人の男の子が 口を開きました。

すると、別の男の子が

「やーい、やーい、貧乏人!」

と囃し立てました。

「「やーい、やーい、貧乏人!」」

一緒にいた友だち男女数人が、煽りに乗って囃し立てます。

 

私は、一緒に遊んでいたのに、急に一人ぼっちになってしまいました。

   (そんなこと言ったら可哀想だよ…。

    お家じゃなくて、用事があった小屋かもしれないし…。)

そう思いましたが、口に出すことはありませんでした。

Mくんは扉の側に立ち尽くして、私たちを見ていました。

 

私は子どもながらに

    《この場にいたこと、(この煽りを)止められなかったことを

     私は いつか 後悔するかもしれない。》

と思いました。顔こそ忘れてしまいましたが、

Mくんの困惑した雰囲気は、今もなお 忘れられません。

 

        🌱  🌿  ☘       🍀  🍃  🍁  🍂

 

こんな私ですから、自分と「気が合わない」と思う人や、

敵対している(かもしれない)人には 積極的には近づかないにせよ、

時と場合によっては区別や差別なく、話し掛けます。

嫌がられることもあるのでしょうが、

せめて、見知った人への挨拶だけは忘れないようにしています。

もう少し、踏み込んで、「何が壁になっているか」分析してもいいのですが、

今は 婆婆のことやらで 心に余裕がないので、そこまでは…。

 

        🌱  🌿  ☘       🍀  🍃  🍁  🍂



自分自身が後悔せぬように、

その時その場所で 自分が取るべき行動を取れればいいのかもしれません。

他の人の行動で「アレは 良くないなぁ…」と思われることは

人のふり見て我がふり直せ」的に 反面教師として、心に刻むのが良いと思います。

 

島津日新公は、「敵さえも 師匠のように捉え、自分を悟すと心せよ」と

対峙しながらも、常に慈悲の心を忘れずに向き合っていかなければならない

と、この《いろは歌》で説いています。

 

昨今の出来事や事件を思うと、敵対する相手は、師匠のようにはとても思えず、

「訳が分からない」突飛なことをする相手に思えることも多々あります。

この歌、島津日新公の思いが通じるような世の中であって欲しいなと思いますが、

如何 思われますか?

 

  

 

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