ら〜郷中教育〜
この感覚は、永遠に続くものではなく、
ー奮起して努力することが必要であるー
「銀行に就職したのに、金融の仕事ではなくて、どうして この仕事?」
と、悩んでいたことがありました。
お世辞にも”良好”とはとても言い難いものでした。
取材のために、早朝…午前4時に仕事場から取材先に出向いたり、
窓一つない部屋で、取材後の記事を書き、
夜9時まで、編集作業を経て、発注手配まで…。
変則的な生活とプレッシャー、
朝なのか、昼なのか、夜なのか…陽の光を浴びない作業が
目眩(自律神経の変調)という症状を私にもたらしていました。
「金融の勉強をしてきたのに、どうして…」
入社2年目の女子行員として、同期の女の子と一緒に たまには
定時退社して、お茶したり、ショッピングもしてみたいのに…
他のオジサン行員と同様の行動パターンになっているのも×××
…と当時は思っていました。
私にとって、「苦」 と感じる時間だったのです。
同じ総合企画部でヨット仲間だった 上司K氏(直属の上司ではない)に
辛い胸の内を吐露したことがあります。すると、
K氏:「お前なぁ、総合職で入行したんだから、
一般職の行員とは違う道を歩くことは覚悟してなかったのか?」
私 :「でも他の総合職採用の女子行員は、2年目でも融資課や預金課だし。」
K氏:「みんな、お前のように本部で働きたいと思ってるのに、
まだ現場なんだぞ。」
私 :「でも金融の仕事じゃないし…。」
K氏:「俺たちが入行したころは、その年で総合職なんて考えられなかったぞ。
今でこそ、総企にいるが、ここに来るまで何年かかってると思う?
15年かかってるんだぞ。」
私 :「 ・・・ 」
言葉の出ない私に K氏は
K氏:「一人で孤軍奮闘しなければならない…なんて思うな。
実際の仕事はお前だけしかできないが、
校正の手伝いくらいは俺にもできるぞ。
手が足らないときは部長に自分から相談してみろ。
それに、 自分が仕事した成果を形に残せるなんて、
俺からすれば、羨ましいくらいだぞ。」
とK氏は笑顔で応えてくれました。
形に残る仕事 と 残らない仕事 …そんな仕事の捉え方をしたこともなかったし、
私の仕事を "羨ましい”と言う人もいるんだ。
曇っていた視界が少し晴れた瞬間でした。
相変わらず、窓のない部屋で、早朝からの取材や夜遅くまでの作業は続きましたが、
以前のように もう目眩がすることもなく、辛いとも思わなくなりました。
会社の仕事でしたから、3年後、部内異動により、
私は自分の望んでいた総合企画部の収益管理室に配属になりました。
そこでの仕事は銀行全体の収支の動きを追ったり、
有価証券報告書の作成の手伝いなど。
「金融の仕事」を日々、実感できるようなものでした。
上司のK氏にとっては、部下との何気ない会話だったかもしれません。
でも、私にとっては ”苦→楽” と大きく意識が変わるきっかけになりました。
奮起 という言葉ほど強い心の変化ではなかったかもしれませんが、
やる気が芽生えたのも事実だし、仕事がどんどん楽しくなりました。
だから ”人間” なんだと思います。
震災や台風で被災し、困苦に苛まれている人々にとって、
今の状況は簡単に振り払われない困難なんだと思います。
被災された皆さんが 一日でも早く、一人でも多く,
「生きることに奮起できる」ように
「元気・楽しさを取り戻せる」ように、
私は手を差し伸べ続けたいと思います。
後日談。
C常務から 「どうして総企の広報になったと思う?」 と尋ねられました。
正直なところ、同期入行 大卒50名は、私より優秀なの人ばかりでしたから、
選ばれたというよりは、 「金融向けではないのかも」 と思っていました。
そのことを申し上げると、「気にしてたんだってな。」と笑っておられました。
常務のお話によると、新入行員研修の時、まじめに日記を書いていたのが、
人事部の目に止まったらしい。
「良い点は学び、悪い点を反省する。提案があれば、自分の言葉で 文章にする。
真面目である。与えられたスペースを有効活用できる。」
…そんな点から広報の仕事をさせてみたい、と判断されたようです。
私個人としては、講義をノートにまとめた延長だったような記憶だったのだけど、
確かに紙面は文字や下手な絵や図で埋まっていたような…。
どこで何を評価されているか分からないものです(*^ ^*)